三隅にある石正美術館で、毎週のようにパフォーマーたちが催しを開催しているのを知った。主任学芸員の神(じん)さんが、こうおっしゃっていた。「小さな町で、どれほどのパフォーマーがいるのかと思いましたが、石見は人材の宝庫。実にいろんなジャンルの逸材がいました。元俳優、元アナウンサー、元クラシック音楽の奏者。みんな発表の場を探していたのです。やりたくてうずうずしていたのです。ですから、3カ月先まで出演者は一杯です。石見からは多くの表現者が出ています。ただ、ここに住む人がそれを知らないだけなのだと判りました。」その言葉に深く共鳴出来るようになっていた。何もないのではなく、知らないだけだ。そして何より、郷土に対する自信を消失している人々が多いことに気づいた。
空白の言説 むき出しのまま枯れていく益田
郷土に関する言説も、おどろくほど少ないことにも気づかされた。たとえば田畑修一郎は、石見の古さについてこう述べている。「石見の持つ古さは単純だ。それはどこか原住民的な古さであって、時代を経るにしたがって深まり、沈潜し、磨きを加えるといったよな古さではない。むき出しであり、古さのままに枯れ、そこに何か頑固な強さがある、といった風なものだ。(出雲・石見)」名文だ。そして、このアトモスフィアについては今の益田も、この描写の範疇にある。しかし田畑以外に益田を描写しきった作家は、後出しただろうか。空白の期間は今も続き、まさに枯れた中、頑固さだけが残り、果てようとしている風景があった。
余裕のない益田の生活
「鳥の巣」を担いでイズミまで歩いたときのことだった。驚いたのは、誰も私のことを見向きもしなかったことだ。他でもない、街を歩いている人は少なく、誰もが車で、自分の目的を果たすため、点と点で動いていることがわかった。余裕があるようで、実は益田という街には「目的」しか存在していないことがわかった。電車の乗り換えの間に、立ち止まってコーヒー牛乳を飲むようなことはないし、県民会館のイベントが跳ねたら、そそくさと車で駐車場を後にし、風呂でも入って寝るくらいのことだった。
異邦人を愛せ
街を歩き、ゆっくりと益田を眺めてみることを意識するようになっていた。「目的」だけで終わるのではなく、余裕や隙間を見つける時間。車を止めて、自転車を頻繁に使うようになった。車窓から見たのではなく、人々が生活している益田がそこにはあった。それは通りすがりの、旅先で眺める街の光景に似ていた。もう二度と訪れることがない街の風景。おそらく益田に住んでいても、二度と立ち止まって見ることのないケースはあるはずだ。異郷にいる人の視点を持ち得たことで、旅の街と、益田の街が本質的に同化していくのを感じた。そして余裕や隙間が、遊び心を触発し、新たな展開やコラボレーションを発想する力になるのでは、と朧げながらに考えるようになった。
路上観察学との邂逅
11月、グラントワ関連のイヴェントで、路上観察学で知られる赤瀬川原平氏と山下裕二氏が来益された。なんとご両人は益田の街を路上観察までされてしまったのだ。さらに我が探検隊員と遭遇さえしてしまった。我々は知らず知らずのうちに、実は路上観察学を踏襲していることを自覚した。若かりし日に衝撃を受けた「トマソン」との出会いが、決して偶然ではないことを確信した。
風景は言語だ! 認識されていない「眺め」を見つけ出せ!
見慣れた風景、記憶の中にある故郷の眺め。たとえば益田に暮らしたことがある人は、小野沢ビルの眺めを見れば、それがどこにあるのかはイメージ出来るはずだ。けれども小野沢ビルの眺めは言説に存在していないし、眺めとしてしか意識されていない。しかし、小野沢ビルの画像を見れば、それが何であるのかは判別できる。そう、風景は、実は言語と同じなのだ。私たちは、故郷を、益田をそうして体感してきているし、ただ生活者は見慣れた風景については、言語と同じ意味を持ちえていることなど興味の範疇外だ。神さんが言われるように、まさに「ただ、ここに住む人がそれを知らないだけなのだ。」
励まされたたくさんのメール
掲載した画像に対して、たくさんのメールも戴いた。見も知らずの人から「ありがとう」と言われ、感激した。わざわざ、どんな人たちがやっているのかと、帰郷の際、事務所を訪問された方もいらした。我々が覗いたファインダーが、ネットを通し、遠く異郷でつながって見えたのだと思う。単に見えたのではなく、心まで通じ合えたことは驚きだった。素直にそのことは喜びたいが、我々が営為したというより、益田という土地が、磁場がそうさせたのだとも言える。我々は、ただ異郷にいる人を意識してデジカメのシャッターボタンを押しただけだ。益田が発する言葉を聞き逃さぬように、また今日も街に出かけよう。